「邪馬台国」といえば日本人なら誰もが小学校で習います。卑弥呼が統治した、日本最古の国の形ですね。しかし「それがどこにあったのか」は実はまだわかってないんです。
日本の歴史書から遡れるのはヤマト王権が日本全国を統治したあたりから。つまり、邪馬台国からヤマト王権までの約150年に歴史的空白が存在しています。
邪馬台国がどこにあったのかという論争が始まったのは江戸時代。それから早300年、有力な説として「九州説」や「近畿説」がありますが、他にも邪馬台国はここにあったんだ!と名乗りをあげる場所は数多くあります。
もちろん何かの物的証拠(遺跡や出土品)があっての主張ですが、これでは全国邪馬台国だらけですね。邪馬台国のナゾは日本最古で最大の歴史ミステリーであるだけに、多くの人の関心を持っているということもわかります。
ここでは、魏志倭人伝をざっくり見ながら、有力である九州説と畿内説についてまとめたいと思います。
『魏志倭人伝』は邪馬台国が記された唯一のソース
邪馬台国とセットで語られるのは中国の歴史書『三国志』の一節である『魏志倭人伝』。邪馬台国を書き記した唯一の文章で、文字数は約2000文字。
たったこれだけの文章です。
邪馬台国があったとされる3世紀中頃について書かれた日本独自の歴史書はありません。したがって、邪馬台国の存在そのものや、その場所、当時の様子はこの2000字から紐解くしかないんですね。
当時「倭人」と呼ばれた日本人の暮らしについて、こんな風に書かれています。
- 男子は身分関係なく入れ墨をしている
- 倭は海に入り魚や貝を採っている
- 人が死ぬと10日あまり、哭泣して喪につき肉を食べない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める
- 特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う
- 人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる
- 法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする
今に通じるところが散見できる一方で、本当かな?と思うような部分も存在します。
魏志倭人伝は「あくまで中国の歴史書であるため、日本のことを一生懸命に考え書いたものではない」ということを注意しなくてはなりません。
邪馬台国への道のり
魏志倭人伝には現在の韓国あたりから邪馬台国への道のりがこんな感じで書いてあります。
注意)末盧は「まつら」や「まつろ」とも読みます。邪馬台国への「南水行10日または陸行1ヶ月」は諸説あり、後述します。
これを現在の地名に当てはめて行くと、
狗邪韓国 は 韓国
対馬国 は 対馬
一支国 は 壱岐
末盧国 は 佐賀県唐津市の松浦半島周辺
伊都国 は 福岡県糸島市
奴国 は 那国(なのくに)と称された現在の福岡市
不弥国 は 現在の福岡県宇美(うみ)町
ここまでは順調にたどれます。地図で示すと以下のようになります。
出典:福岡路上遺産
問題となるのは不弥国から投馬国、そして邪馬台国への道のり。
南至投馬國、水行二十曰。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
不弥国から投馬国まで南に水行20日。そして女王のいる邪馬台国まではさらに南に水行10日。
素直にこれに従うと、投馬国ははるか南の海上、邪馬台国に至ってはさらにさらに南の海上(一説によるとフィリピン沖)ということになってしまいます。歴史ミステリーの始まりです。
九州説と近畿(畿内)説
魏志倭人伝の記述には不確かさがあることがわかったと思います。文献研究者は
- 投馬国まで「南に水行20日」は、実は東だったのでは?
- 邪馬台国までの「南に水行10日陸行1ヶ月」は南ではなく東だったのでは?また、「水行さらに陸行」ではなく、「水行または陸行」ではないか?陸行「1ヶ月」ではなく「1日」の間違いでは?
- ひとつ前の国から数えずに、スタート地点からカウント、または別の場所からカウントしてるのではないか
というように解釈に幅を持たせ、現在では邪馬台国の場所に関する有力な説として九州説と近畿説があります。
九州説
九州説の論拠として考えられるのは弥生時代の日本最大級の遺跡である佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」です。
- 王族と思われる墓の中から銅剣とガラス製の管玉(大変貴重なもの!)が出土
- 魏志倭人伝の一説「宮室樓觀城柵嚴設」(宮室、楼観は城柵で厳重に)と酷似した遺跡の作り。城柵とは土を掘り土塁を作った上に板塀を並べるもので、同じタイプの城柵は同時代の近畿には存在しない
- 集落を2重お堀が囲んでいる -> 魏志倭人伝には「卑弥呼王以来少有見者」(卑弥呼は王になって以降(厳重に警護され)人前に姿を現さなくなった)とあり、厳重な2重のお堀が卑弥呼を守っていた
- 鉄器が大量に出土している -> 鉄は当時日本では生産されていなかった最先端アイテム。中国との国交が伺える。畿内ではほとんど出土していない
- 鉄器の中でも矢尻が多い -> 邪馬台国以前の日本は「倭国大乱」と呼ばれた争いの時代。多くの鉄製武器が出土しているということは北九州が大乱の最前線だったことがうかがえる
1986年に吉野ヶ里遺跡の発掘調査が開始されると「九州説」が一気に世間の後押しを受けるようになりました。もしも邪馬台国が本当に九州にあったなら、それは地方国家のようなイメージで、ヤマト王権ができる前に滅びたか、ヤマト王権に滅ぼされたということになります。
畿内説
畿内説の論拠として考えられるのは日本で初めの都市計画を示した奈良県桜井市の「纒向遺跡」です。
- 3世紀最大の前方後円墳「箸墓古墳」がある -> 卑弥呼の墓?
- 南北19.2メートル、東西12.4メートルという弥生時代では日本最大の建物があり、その他の建物群が東西一直線上に並んでいる -> 当時最先端の都市計画
- 纒向遺跡には庶民の家の痕跡がなく、建物のほとんどが高床式で高位の人たちが住んでいたと考えられる -> 各地から高位な人が集まっていた
- 北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえる。魏志倭人伝には「今使譯所通三十國」30ヶ国以上の国の人が交易をする場所が邪馬台国の都と書かれている
- 前方後円墳が大和を中心に分布しており、その後全国に広がっている
元々はヤマト王権発祥の地として考えらていた纒向ですが、卑弥呼の時代のものが多数出土したことから邪馬台国の有力候補地と見られるようになりました。
畿内説の場合は、近畿地方にあった邪馬台国がその後ヤマト王権となったという風にも考えられ、日本誕生の様子がとてもスッキリ語れます。
まとめ
古代日本史において、邪馬台国からヤマト王権に至るまでの約150年が空白となっています。邪馬台国はどこにあったのか、ヤマト王権とどのような繋がりがあったのかを知ることは、日本誕生を紐解く上でとっても重要とされます。
歴史的な重要性はもちろん、「今になってもわからない、でももう少しでわかりそう」な邪馬台国歴史ミステリーは多くの人を魅了しています。
空白の歴史を埋めるには、現在発見されている数々の物的証拠(遺跡や出土品)の上にさらなる物的証拠を重ねて考察を繰り返すしかありません。纒向遺跡では、現在の発掘面積は全体の10%にも満たず、今後も新たな発見が期待されます。
最後に、纒向遺跡の発掘に携わった研究員の言葉で締めたいと思います。
「金印や封泥を狙って調査をするという方法では決着なんてつかない。九州だろうが近畿だろうが、どこかでそういうものが出る可能性はないわけではないが、そんな”宝くじの当たり”を期待して調査を続けても何の意味もない。遺跡から得られるデータの中でどれだけ歴史を組み立てていくのかということに尽きる」
*金印・封泥 – 魏が邪馬台国の卑弥呼に送ったとされる品物